「人生100年時代」と言うけれど 年をとっていい事ってありますか?
私はあと1週間で50歳になります。江戸時代ならとっくに死んでいる年齢です。そう思うともう十分に生きたような気もしますが、今は人生100年とか言われているんですよね。ということは、今はちょうど人生の折り返し地点ということになります。
「人生100年」といっても健康寿命はどれくらいでしょうか?両親や近所のお年寄りを見ていると、やはり本当に元気に旅行へ行ったりできるのは75歳ぐらいまでなのかなと思っています。75歳過ぎた頃からどこかしら体の不調が現れたり、転んで怪我をしたり…。
父は現在83歳、母は82歳。父の方は要介護5で2年ほど前から特別養護老人ホームに入居しています。母の方は実家で一人暮らし。母の持病は糖尿病、間質性肺炎、最近では足腰が悪く要介護2に認定されています。幸い3人の子供たち(私は末っ子)は皆同じ区内に住んでいるので、3人で連携して実家の様子を見に行ったりしています。
今、特別養護老人ホームに入居している父と、病院ばかりに通っている母を見ていると、年をとっていい事ってあるのかな?としみじみ感じています。
今回は特別養護老人ホームに入居している父について、娘の気持ちを書いてみようと思います。
父が特別養護老人ホームに入居するまで きっかけは脳出血
私の父は今からちょうど2年前(2020年)の5月に脳出血で病院に運ばれてICUに入り、それから数週後には一般病棟へ移りましたが、後遺症が残り自分で飲み込むことができず、体半分の麻痺も少し残りました。父が81歳の時です。ちょうどショートステイに行っている時に発症したので、スタッフの方が父の異変に気づいてくださり、直ぐに病院へ運ばれました。
経鼻経管栄養(自分の口から食事を取れなくなった人に対し、口や鼻にチューブを通し、胃や腸に栄養を直接注入する方法)のために、鼻にチューブを通していたのですがそれが苦しいらしく、チューブを抜いてしまうので、両手に重たいミトン(介護用グローブ)をはめられていました。
ちょうど新聞やインターネット上で『コロナ禍』という言葉が使われるようになった頃です。面会もなかなかできず、入院して1ヶ月ぐらいしてからやっと短時間の面会が許されました。
父には極力明るく接しました。父が湿っぽい話が大嫌いな明るくて面白い人なのでそうしました。「お父さ〜ん!元気?いい部屋(眺め)じゃない (^ ^)」なんて話しかけましたが、言葉もうまく発せない様子。あんなにおしゃべりだった父が話せないのは、どんなにもどかしいことでしょう。
しばらく顔も拭いていないでしょうから、持参した洗面器にお湯をはって、ホットタオルを作って顔を拭き、膝から下の足も拭いてあげました。重たいミトンを外して手も握りました。
面会時間が確か15分しかなかったので「お父さんもう行くね。また来るね!」と父に声をかけました。名残惜しそうな顔をしているので帰りづらく、何度か「またね!」を繰り返していると、涙顔など見せたことのない父が涙ぐんで声を振り絞って「行かないで」と言いました。私もつられて泣きそうになりましたがグッと涙を堪えて「大丈夫だよ、また来るからね。元気出して!」と言い、その場を後にしました。
それから病院の方で2ヶ月のリハビリを受けましたが(飲み込む練習ももちろんしてくださいましたが)元の生活に戻れるまでに回復が無く、急性期を過ぎたので他の病院へ転院するか、面倒を見てくれる施設を探すことになりました。急性期を過ぎた高齢者は病院に3ヶ月以上入院できないことを初めて知りました。
入居できる特別養護老人ホームがなかなか見つからない
父の転院先の候補に上がった1つ目の病院は、同じ区内の病院で、今と同じようなケアをしてくれて月22万ぐらいかかると言われました。それは高すぎます。2つ目は県をまたいだところにある病院で、月15万ぐらいで費用もちょうど良かったのですが「うちは延命措置はしない」という病院でした。リハビリなど元の生活に戻れるような前向きなケアはなく、ただ自然に弱っていくのを待つというような説明でした。「そんなところにお父さんを預けるなんて絶対に嫌だ」と母親が強く反対しました。
1つ目は良いけれども費用がかかりすぎる、2つ目は死を待つだけ、両極端で選べませんでした。費用のことだけ考えると、千葉県の鴨川など遠くへ行くしかありませんでした。
家族で悩んでいたある日、入院前からお世話になっていたケアマネージャーさんから連絡があり、父が以前からショートステイでお世話になっていた施設に入居できることになりました。実家からも近く、私の自宅からも車で15分ぐらいの距離です。費用も月15万ぐらいで収まりそうです。本当に理想的なところに入居させていただくことができました。私たち家族はラッキーだったと思います。
ショートステイの時に何度か父に面会に行ったことがあったので、スタッフの皆さんが親切で優しい方ばかりなのも知っていました。父も顔見知りのスタッフさんばかりなので、全く知らない施設へ行くよりは、安心できたと思います。
特別養護老人ホームに入居後 オンライン面会(ビデオ面会)に
入居してしばらくの間は週に1度、短時間の面会が許されていましたが、程なくしてどっぷりコロナ禍に入り、オンライン面会だけになりました。事前に予約をしておいた時間に施設へ行き、検温と消毒を済ませ記帳し、スタッフの方がiPadでLINEのビデオ通話をかけてくれます。1回の面会時間は30分。たとえ画面越しであっても、お互いの顔が見られるのは嬉しいことです。直接会って話すよりもコミュニケーションの取りづらさはもちろんありますが…。
はじめの頃は父も「おはよう」「元気だよ」など少し会話らしいことができていました。相変わらず鼻に通しているチューブが辛そうです。筋肉ムキムキで体格の良かった父が痩せていました。施設では飲み込む練習や手を動かすリハビリなども献身的にしてくださり、普段の父の様子を聞くこともできました。小さく個装された豆腐やプリン、ゼリーなどの柔らかい食べ物を最初の1年ぐらいは毎週差し入れして、全部は食べきれないけれども父も楽しみにしている様子でした。
いつも喧嘩ばかりしていた両親ですが、離れて暮らすと急に愛おしくなるみたいです。父が入院する前は、母親が父の世話で疲弊していたので、介護のプロにお任せすることができて良かったと思います。しかしこの頃はこんなにずっとオンライン面会が続くとは思っていませんでした。
オンライン面会の30分の間、ずっとスタッフの方が付いてくれている訳ではないので、だんだんと言葉が発せなくなってきた父と意思疎通を図るのが難しくなってきて、今ではYou Tubeで父の好きだった山川 豊さんの「アメリカ橋」や千 昌夫さんの「北国の春」を流して見せたりしています。
特別養護老人ホームに入居して2ヶ月後 胃瘻(いろう)設置
父が脳出血を発症してから今までを時系列にするとこうなります。
2020/5/13 脳出血になり入院
2020/7/15 特別養護老人ホームへ入居
2020/9/17 胃ろうの造設
2021/4/17 胃ろうのカテーテル交換
2021/10/28 胃ろうのカテーテル交換
私が直接父に会えたのは、この2年間で3回です。胃ろうを造設した時と胃ろうのカテーテルを交換した時。施設から病院へ行く時には、介護タクシーを往復使って家族が付き添います。胃ろうにしたので、鼻からチューブよりは本人もだいぶラクになったのではないかと思いますが、相変わらず痰の吸引はあるので、それは本当に苦しいらしいです。痰の吸引をしようとすると動かない体で必死に抵抗していると施設の看護師さんがおっしゃっていました。
ご存知の方も多いと思いますが、胃ろうは口から食べ物をとることができなくなった時、胃から直接栄養を注入する方法です。胃ろうの手術をしても、口から食事をとることができるのは私は知りませんでした。なので、胃ろうになってからも今までのようにゼリーや夏にはバニラアイスなど差し入れていました。でも次第に飲み込む力が弱くなり、柔らかい食べ物でも飲み込めなくなり、差し入れはもう無しにすることに。今は自分の唾でもむせるようになってしまいました。
特別養護老人ホームに入居して約2年 コロナウィルスに感染
胃ろうのカテーテルの交換は約半年に1回なので、今年(2022年)の4月に病院を予約していました。半年ぶりに父に会えると楽しみにしていたのですが、施設でコロナ感染者が出てしまい、今回は病院の予約をキャンセルすることに。この時には父は陰性だったので、5月には胃ろうのカテーテル交換ができるだろうと思っていたところ、今度は父がコロナ陽性になってしまい、入院してしまいました。39度近い熱が一度でて、その後は解熱剤を使ったりして平熱に戻りましたが、まだ入院しています。言葉が発せない、口から食べ物もとれない、体が満足に動けない、そしてコロナに…。父が気の毒になってしまいました。どこにも出歩かない、動かない父がコロナになるなんて。
入居している施設の方でもだいぶ気を遣ってくださっていた訳で、誰を責めることもできません。「お父さんがもし話せたら、なんて言うかな?」といつも考えてしまいます。うちのリビングに育ち過ぎて天井まで伸びてしまったコーヒーの木があるのですが、まるで父もこのコーヒーの木のようだなと思うことがあります。時々水を吸い、ただドーンッと座って家族を見守っているのです。
父の目はまだ見えているし、耳は遠いかもしれないけど聞こえているし、家族のことも分かっているはずです。気が付けばもう1ヶ月以上オンライン面会でも会っていないので、早く顔を見せて安心させてあげたいなと思っています。
特別養護老人ホームに入居している父の生き様
私の父は長年、都バスの運転手だったせいか車の免許を返納することを頑なに拒み、しまいには慣れた道でも危うくなり、80歳前(78歳ぐらいだったかと思います)にようやく免許を返納しました。運転にはかなり自信がありましたし、車の運転免許を取り上げられた時には、さぞかしガッカリしたと思います。最後の最後までダイハツの新車を買おうとしたり、抵抗していました。
日常的にバイクにも乗っていたのですが、それももちろんダメ。バイクがないので通えずスポーツジムも退会。バイクの変わりに買った電動自転車でもすっ転んで怪我をし、それもダメ。なんでもダメで本当に嫌気がさしたと思います。おまけに排尿の方もうまく行かなくなり、排尿バッグを取り付けられ、尿道が炎症してしまったり、痛い思いも沢山しました。
父はもともと豪快で、大胆で破天荒な人です。とってもお喋りで、相手が聞いていようがいまいが、喋り続けているような人でした。バス旅行などのカラオケ大会で優勝するぐらい歌が上手で、大声大会のイベントにも出場したことがあり、声の大きい人でした。本当に面白いじーじで、孫たちからも愛されていました。いや、今も愛されています。
64歳の時に脳梗塞にもなりました。その時、左半分の顔が垂れ下がっていて、牛乳もちゃんと飲めない状態なのに病院に行くのを拒んだ父。でも無理やり母と叔母で病院へ連れて行き、なんとか麻痺も残らず助かりました。あの時も病院を抜け出してタバコを吸っていた父。決して他人の言うことを聞かずに、自分がやりたいことをやってきたような人です。
「お父さんがもし話せたら、なんて言うかな?」もしかしたら「もう死にたいよ」って言うかな。でも生まれてきたからには、最後に燃え尽きる時まで生き抜かなければならないんですよね。
胃ろうを付けて、尿のカテーテルを付けて、満足に動けない体で、コロナにかかっても生きている父は、本当にタフだなぁと関心しています。あと何年したらコロナが終息して、直接面会できるようになるのかわかりませんが、早く父に直接会ってたくさん話しかけたいです。
時々、夢に父が出てきます。夢の中の父はいつも若くて元気で髪の毛もあって、私が小さい頃に見ていた父の姿です。「お父さん元気になって良かったね!」と夢の中で私が言っています。せめて父が今の大変な状況の中でも、楽しい夢をみているいいなぁと願っています。